板東俘虜収容所跡地(ドイツ村公園)-奇跡と感動の記憶-2022&23〔徳島県/鳴門市/板東町〕

板東俘虜収容所跡地(ドイツ村公園)-奇跡と感動の記憶-2022&23〔徳島県/鳴門市/板東町〕

2022年6月10日

コウノトリ田んぼギャラリーを後にして、板東俘虜収容所跡地(ドイツ村公園)へ行ってみました。

板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)は第一次世界大(日独戦争)の時代、1917年から1920年まで、中国の港湾都市である青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となったドイツ及びハンガリー帝国の将兵を日本で収容した場所です。全国で12か所あった収容所のうち、ここでは合計約1,000名が収容されたということです。

ここが何故、多くの人々の記憶に留められ、史跡として残されているのか。それは、当時収容所長であった松江豊寿(まつえ とよひさ)陸軍中佐の采配で「捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行った」からであり、そのために「今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所」と言われるようになったからです。(「」内はWikipediaより引用)

もう少しWikipediaから引用させていただきましょう。
「板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後の日独関係の友好化に寄与した。」

この後に訪れた「鳴門ドイツ館」の展示に、地元の人々との豊かな交流の軌跡が紹介されていて胸を打つものがあります。(別の投稿でご紹介

「バルトの楽園」DVDパッケージの写真。「ベートーヴェン『第九』日本初演の感動物語!」のキャッチコピー
初回限定版パッケージ

日本でベートーヴェンの第九が初めて演奏されたのが、ここ板東俘虜収容所であり、演奏したのが俘虜たちで構成されたオーケストラと合唱団であったこともまた有名なお話となっています。
映画「バルトの楽園(がくえん)」でも描かれました(最後の方だけですが)。映画を観て驚いたのは、ドイツの敗戦が決った後になってから、このチャリティ演奏会が企画され、第九の演奏が計画されたということです。「どんなに辛いことがあっても、希望を捨てるな」という松江所長の言葉が心に響いたのでしょうね。映画の中では第九はオマケみたいなものですが、素晴らしい作品となっています。俳優陣も豪華で驚きます。徳島出身の大杉漣さんも出演されています。
ちなみに、「バルト」とは「髭」のことだそうです(笑)


第2給水施設から下池周辺

ドイツ村公園の南北中央あたりにある駐車場に車をとめて歩きます。

駐車場看板
駐車場
駐車場のすぐ脇にある「製パン所」跡の説明板。
駐車場のすぐ脇にある「製パン所」跡の説明板。

製パン所
収容所内には、捕虜の日常食として支給するパンを製造する施設がありました。建物は木造でしたが、内部には長さ4.6m、幅3.7m、高さ約2mのレンガ造りの窯が建設されました。窯はその後、地上部分が解体撤去されたものの、発掘調査によって、窯の基礎部分が見つかりました。製パン所では、民間のパン職人や軍隊でパン焼きの任務に就いていた捕虜たちが製造に携わり、当初日本側が建設した窯も、捕虜たち自身の手で作り直されたことが記録に残っています。

緑の中に製パン所のあった場所の枠組みが木で作られている様子
製パン所のあった場所です。そんなに広いスペースではなさそうですね。映画の中で、ある脱走兵が捕えられ、誰もが罰を与えられるかと思うところを、元の職業だったパン職人の腕をパン工房で活かしてみないか、と言われたシーンを思い出してぐっときます。
レンガ造りの四角い構造物の前に設置された説明版の様子
製パン所のすぐ右手にある「第2給水施設」の説明板。
レンガ積みの水槽部分。

第2給水施設
下士官以下の捕虜が使用する8棟の兵舎のうち、東西に分かれた4棟の北側に、それぞれ「厨房・浴室棟」と「給水施設」が建てられていました。収容所開設当時は、レンガ積みの水槽の上部に木造屋根が付いていました。また、水槽の横での給水は、蛇口ではなく、パイプの穴に差し込んだ木栓を抜く方法でした。なお、水槽の北側にある給水塔は、第二次世界大戦後に、収容所建物を転用して開設された引揚者住宅に加圧給水するために建設したものです。

レンガ積みの水槽と背後に聳える給水塔
後の給水塔は第二次世界大戦後に作られたもの。「引き揚げ者用住宅に居住した一人に板東英二がいる(Wikiより)」
給水施設から奥に続く道
緑に囲まれています。
緑の中の向こう側に青い屋根とベンチが見える
手前は「下池」なんですが…
池とはわからない草で覆われた水表の様子
水草が覆っていて池とは思えないですね(笑) 以前来た時はもう少し池らしかったです。
右上に上段へ続く階段の様子
この階段を上がります。この辺りは当時の地図では「植物園」となっています
階段の上から下を見る様子。青い屋根とベンチの4区画が見える
階段を上がりました。さほどの景色でもありませんが…ベンチのある辺りは「第2将校兵舎」だったようです

上池周辺をめぐります

上池周囲の歩道を時計回りに歩きます。

青い空、白い雲、緑に囲まれた丘と黄緑色の池
こちらには青々とした池、「上池」があります。
池の周囲のレンガ色に舗装された歩道
いい景色ですね。
池の辺で飛ぶシオカラトンボ
シオカラトンボを撮りたかったけどピンボケ失敗の図。
池の向こう側にドイツ橋を模した小さな橋が見える様子。池の辺には桜の木。
ドイツ橋を模しているんでしょうね。
合同慰霊碑付近を対岸より
墓碑と合同慰霊碑が少し見えています。
背後の山々の緑
木々が思い思いに育っています。信号山(展望台)があるようです
池の辺に「赤十字ゆかりの地モニュメント」の方向看板
板東俘虜収容所の人道的な史実を基に、日本赤十字社徳島県支部がここを「赤十字ゆかりの地」としたとのこと。
「赤十字ゆかりの地」モニュメントの様子
緑に囲まれて、立派な石で作られた「赤十字ゆかりの地」モニュメント。
モニュメントに貼られているポスターの図柄
「俘虜たちが行ったチャリティ演奏会のポスター」
「赤十字ゆかりの地」モニュメントに刻まれた言葉
〈松江豊寿所長の板東俘虜収容所での施設運営に、脈々と流れていた赤十字の人道精神。ドイツ兵と地域の人々の友情にまでつながったこの収容所は、後に『奇跡の収容所』と呼ばれている。〉
モニュメント上部の写真
「国境を越えた博愛の心がここにあった」
レンガ造りの石碑の写真
ノルトライン・ヴェストファーレン州 独日文化交流育英会による菩提樹30本の寄贈の記念碑
同上
〈このプレートは、デュッセルドルフ・ふるさと保存会内のサークル『フリムーフレムヒェン』の会員ゲルト-ヨアヒム・トプファー、ペーター・モルケからの寄贈である〉
池の辺の散歩道
緑に囲まれて綺麗ですね。地元の人の良い散歩コースになっているのではないでしょうか。
池の反対側、ドイツ橋風の橋から南側を眺める
池の黄緑が綺麗です。

ドイツ兵士の墓(墓碑)と合同慰霊碑

ドイツ兵士の墓(墓碑)の写真
ドイツ兵士の墓(墓碑)。俘虜たちによって作られた墓。第二次大戦後、高橋春枝さんという女性が、草に埋もれているこの慰霊碑を発見し、定期的に清掃や献花を続けたことから新聞に取り上げられ、現在のドイツとの交流に繋がったということです。これもまたドラマチックなお話ですね。
合同慰霊碑の写真
合同慰霊碑は日本での捕虜生活のうちに歿した兵士たちの霊を祀るものです。
「ドイツ兵の慰霊碑」説明板
下記に文章を転載します。

ドイツ兵の慰霊碑
徳島・松山・丸亀および板東の収容所で事故や病気により亡くなった捕虜11名を慰霊するため、1919年に捕虜自身の手によって建てられました。正面には慰霊の言葉、残る3面には11名分の姓名・所属・生没年月日が刻まれています。収容所閉所以降、手入れする人もなく荒れ果てていた慰霊碑は、第二次世界大戦後、地元住民に発見され、その後の清掃活動がきっかけとなり、再び板東の人々と元ドイツ兵捕虜との交流が始まって、現在の日独友好交流に繋がっています。

慰霊碑説明板とそばにある桜の木、そして池
この池はいつできたのでしょうね。
池の辺、桜の木
今日は人影もなく、静かなひとときです。
石碑の前から続く乱張りの石畳とそれを囲む緑
乱張りタイルに落ちた桜の影が良い雰囲気です。
乱張りのアップ写真
そしてつい、乱張りに注目してしまいます(笑) 職人さん、ホントすごいなー。この石は結構固そうですよ…
池の辺から南の遠景を撮る
遠くに「ゆめタウン徳島」の「you me」の看板が見えます。
紫色で花びら3枚の小さな花
かわいいですね。オオムラサキツユクサだそうです

駐車場に戻りました

緑に囲まれた公園で気持ちの良いお散歩でした。

木陰に駐車するハイエースバン
今回の相棒ハイエース。お気に入りです。CD聞けなくて焦ったけど、iPhoneをBT接続してなんとかBGM確保。
駐車場向かいの集合住宅の花壇スペース
この集合住宅のあった場所も元収容所(第1〜4兵舎)だそうです。この左手もドイツ村公園ですが、今回は省略。
花壇に植えられた黄色のユリをアップで
黄色のユリがぎっしり、すごいなー(PictureThisによると「リリウム・ブルビフェラム」だそうです)
こちらはピンク色のユリ
ピンクも艶っぽくてイイですね
白いアメリカあじさいアナベル
アナベルも綺麗

さて、この後は鳴門ドイツ館へ向かいます。

板東俘虜収容所で起こった奇跡の交流の記録が残された資料館です。日本で初めて「第九」が演奏された場所としても有名です、
jiro.garden

〈2023年6月追記〉収容所跡の南側を巡ります

上記の翌年、南側を見てきましたのでご覧いただきましょう。

どちらかと言うと南側が入り口になるので、ちょっと逆順になってしまいましたね。

南側は第1〜8棟の兵舎となっていました。ここで一般の兵隊さんたちが暮らしたんだなあと思いを馳せながら歩きます。

左が北側、右が南側です
こちらが一般の兵舎跡ということになるでしょうか。北側は将校向けでしたからね。捕虜になっても階級で扱いが違うというのが面白いところです
兵舎をイメージした休憩所ですが…
枯れ葉の袋でいっぱいです… 以前来たときもこんなでした。あまり観光客を受け入れたくないのか(笑)
こちらも緑がいっぱいですが、当時はなかったでしょうね
楓も好きです

なぜかコノハズクに出会います

大きな望遠レンズのカメラをぶら下げてのんびり歩いていたら、地元のおじさんに声を掛けられました。

おっちゃん
おっちゃん

撮れた?

じろう
Jiro

え、何がですか??

おっちゃん
おっちゃん

何がって鳥やん、みんなそれ撮りにきよるんやん

じろう
Jiro

へー! 鳥って何の鳥ですか?

おっちゃん
おっちゃん

アオバズク

じろう
Jiro

アオバズク?(いきなりの名前にピンと来てない^^;)

おっちゃん
おっちゃん

教えちゃるけん、こっち来てみい

じろう
Jiro

ありがとうございま〜す♪

樹から数メートル離れて60度ほど上を示された方向を見つめると…

お、いたいた!ちっちゃ!望遠持ってきて良かった〜♪

77mm径のレンズを向けられてガン見され返されます(笑)
体長25cmほどでしょうか、小柄なフクロウです
やっぱりガン見です(笑)
少し違う角度から。毛並みが美しいです。出会えて良かった〜♪

近くの樹に巣を造っていて、今日はココに止まっているそうです。ということはツガイで来てるんだろうか… おっちゃんはあっという間にいなくなっちゃったので聞きそびれてしまいました(^^;;

こんな嬉しいサプライズがあろうとは(喜)

ja.wikipedia.org
この樹の真ん中ちょっと上くらいにいました

兵舎跡地を歩きます

レンガの基礎など当時のものも一部残っているそうです。

兵舎第7棟跡地
ドイツ橋を模した通路
俘虜たちはどんな気持ちで過ごしていたのでしょうか
友愛の石碑です
昭和53年当時の鳴門市長のあいさつ文が刻まれている(下記参照)

この地は、第一次世界大戦に参加した953人のドイツ兵士が、大正6年から9年まで過ごしたところである。
いまもなお、青々と生い茂っているセンダンの大木や、兵舎の基礎に使われていた煉瓦積みが、そのまま残っている。
広場の中央にある石積みの橋は、当時、ドイツ兵士がつくったドイツ橋を模したものである。
丘の上には、日本各地で死亡した85名のドイツ兵士の合同慰霊碑が建立されている。
ここが、市民の憩いの場となり、あわせて日独友好の広場となるよう願っている。
昭和53年4月1日
鳴門市長 谷 光次

友愛 FREUNDSCHAFT
ドイツ語訳と思われ
赤い実が綺麗。鳥にとっては若干不味くできているため、すぐに食べられず長い期間に渡って食べられるよう出来ている、という話を聞いたことがあります。うまくできてるねえ
ここは帰りに反対側から渡ることにします
通り過ぎて反対側を写します
兵舎第5棟跡のスペース
東屋に花が飾られています
こういう心遣いが良いですね
綺麗です
がくあじさいもお洒落な品種が増えてきました
まだ少しちじこまってる花
東屋を横から
サフランモドキ
ネズミモチ
ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)なんかアートに撮れたよw
ドイツ橋(模)をアップで
国指定史跡 板東俘虜収容所跡 兵舎第5棟

国指定史跡 板東俘虜収容所跡 兵舎第5棟
収容所正門から北にのびる「大通り」の両側に、幅7.5m、長さ73mの建物が4棟ずつ、合計8棟建てられました。各兵舎には、1棟あたり100〜120人の下士官以下の捕虜が収容されていました。現在、公園の敷地内には、「大通り」東側の4棟(第5〜8棟)のレンガ基礎が残っていますが、いずれも全長の半分にあたる36m程度を地上で確認することができます。建物内部は、東西方向に延びる通路の両側に、捕虜のベッドや荷物などを置いた部屋がありました。

よく見たら、案内板の左側が兵舎跡なんだね(^^;;

俘虜収容所の正門です

順序が逆になってしまいましたけど、映画でもよく登場した正門が、柱部分のみ再現されていました。

正門です。赤いランプがかわいい
引いて撮影
入り口の説明看板

板東俘虜収容所跡
板東俘虜収容所跡は、第一次世界大戦における日本とドイツが中国青島で交戦した「日独戦争」によって俘虜となったドイツ兵約1,000人を収容するため、1917(大正6)年4月から1920(大正9)年3月までの3年のあいだ設置されていた収容所です。
この収容所の敷地面積は約57,000㎡で、陸軍演習場の一部を利用して建設されました。収容所内には、管理棟やドイツ兵を収容した兵舎や製パン所など、日本陸軍の施設が約50、ドイツ兵たち自らが建てた商店や収容所で亡くなった戦友のための慰霊碑など約120の施設を建設しました。収容所の一部は、現在、ドイツ村公園子供広場として整備されていますが、その中には、当時の兵舎建物の基礎の一部やドイツ兵の慰霊碑などが残されています。
また、発掘調査により、製パン所跡から当時のパン竃や将校専用兵舎の痕跡が地中に残っていることが確認されています。
この収容所では、所長の松江豊壽の計らいによって俘虜の自発的な活動が規則内において大いに認められたことで、文化・スポーツ活動が活発に行われました。これらの活動については、ドイツ兵が製作し所内で販売した演奏会やスポーツ大会のイベントプログラムや、『板東俘虜収容所新聞』・『日刊電報通信』などの情報誌、さらに当時の写真から知ることができます。
その中で、最も有名なドイツ兵の活動として、1918(大正7)年6月1日に日本で初めてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの交響曲第9番ニ単調作品125合唱付き、通称「第九」がアジアで初めて全曲演奏された場所であることが挙げられます。
この演奏会の会場は、兵舎を改造した講堂で開催されますが、合唱の練習は所内の浴室でおこなわれたことが、『日刊電報通信』に記されており、所内の施設をどのように使っていたのかを知ることができます。
このように、板東俘虜収容所跡は、ドイツ兵の活動に関連する歴史史料が多く残ることで様々な歴史事象が読み取れることと、当時の収容所跡が現存することにより、お互いが密接な関係を保持しながら文化財の価値を高めているところに他の遺跡とは異なる大きな特徴があります。
鳴門市教育委員会

アストロメリア・アウレア。こないだEテレの『陽だまり屋』で見たばっかりのような(笑)
ハクセキレイ この鳥、ちっとも逃げないんだよなー
表玄関から北へ戻ります
緑に囲まれて、いい空間ですね
雨なら雨でもいいかな、と思っていましたが、爽やかなひとときで良かったです
ドイツ橋の通路です
帰りは上を通ろう(笑)
枯れ葉の地面が軟らかくて優しい
おー、まだいたね(^^) 真ん丸おめめでやっぱりガン見です(笑)
通路の中央からモニュメントを眺めます
ユスラウメだそうです
今年も綺麗に咲かせてくれています
見事だなー♪
ピンクも綺麗ですね♪
リリウム・ブルビフェラムだそうです。

俘虜収容所跡の南半分、いかがでしたでしょうか。『バルトの楽園』を見てから訪れると、いろいろなシーンを思い出して楽しめるかと思います。

そういえば昔々、ロケ地も訪れたことがあったことを思い出します。いまは閉鎖されているので、また写真を整理してご覧頂けるようにできればと思っています。


『きけ、わだつみの声』の出目昌伸監督が、松平健と『ヒトラー~最期の12日間~』の名優ブルーノ・ガンツ共演で贈るドラマ。第一次大戦中の捕虜収容所を舞台に、ドイツ人捕虜と収容所員や地元民との交流、そして「第九」演奏に向けての挑戦を描く。
鳴門市のコウノトリ-今日も元気に育ってます♪- 2022〔徳島県/鳴門市〕
鳴門市で元気に育つコウノトリたちの写真です。巣立ちを待つ雛たちと、大空を舞う成鳥たちの姿をご覧下さい。
jiro.garden