鳴門ドイツ館-奇跡と感動の記録- 2022〔徳島県/鳴門市/板東町〕

鳴門ドイツ館-奇跡と感動の記録- 2022〔徳島県/鳴門市/板東町〕

2022年6月10日

初代は1972年に出来たそうですが、現在の建物は1993(平成5)年に建てられた第2代のもので、美しいデザインの建築が周囲の緑に囲まれてとても絵になります。

ドイツ村公園の後、すぐ北にある鳴門ドイツ館を訪れました。ここは「板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動の様子や、地域の人々との交流の様子を展示した史料館」です。

入り口でチケットを購入する際に、写真撮影を申請して許可をもらいます。個人ブログに掲載しても大丈夫とのお墨付きです。せっかくの掲載許可ですので、展示の一部を写真でお楽しみください。ちなみにチケット購入時にJAF会員証を提示すると20%OFFになります(会員含む2名まで)。

鳴門市ドイツ館は、板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動の様子や、地域の人々との交流の様子を展示した史料館です。ドイツ兵たちが板東でどのような生活を送ってい…
doitsukan.com

鳴門ドイツ館 外観

記念撮影には絶好のいいお天気です。

青い空、奥に鳴門ドイツ館、手前左に道の駅「第九の里物産館」
左は物産館、奥が鳴門ドイツ館です。
駐車場脇の大きな樹と鳴門ドイツ館、左の小屋はトイレなどの建物。
緑が気持ち良いですね。
近隣観光マップの看板
第九の里なるとマップ
道の駅「第九の里」の紹介看板
平成17年8月10日道の駅登録、鳴門市と徳島県が連携して整備したとあります。
階段脇に大きな看板。板東の記憶をユネスコ「世界の記憶」登録へ!の文字
ユネスコの主催事業「世界の記憶」、事業の主要目的は、世界的に重要な記録物に最も適切な手段を講じて保存を奨励し、デジタル化を通じて全世界の多様な人々の接近を容易にすること、平等な利用を奨励して全世界に広く普及させ、世界的観点で重要な記録物を持つすべての国家の認識を高めることにある。(Wikipediaより)
ドイツ国旗、日本国旗、鳴門市旗と「『第九』交響曲 全楽章演奏 アジア初演の地『なると』」の看板
第九の日本初演であり、同時にアジア初演とのことなんですね。
松江豊寿氏銅像
松江豊寿像「2018年6月『第九』初演100周年にあたり、鳴門市とドイツ・リューネブルク市、故郷である会津若松市をはじめとする多くの人々の寄付により功績を讃え銅像が建立されました」
ベートーヴェンの顔出しパネル
結構人気なんですよね、顔出しパネル(笑)

2階 史料博物館へ

建物の中に入ると左に受付カウンター、右側はおみやげものなどのコーナーになっています。受付で入館料の支払いと撮影の申請書を書いて、撮影許可のカードを受け取り首にかけます。

案内看板
α7sはフラッシュを使わないで、しかもシャッター音も消して撮影ができるので、こういうシチュエーションは本領発揮です。(フリッカー現象にはご注意)
2F、「←第九シアター」の表示とベートーヴェンの絵
ベートーヴェンがご案内です(笑)
展示室入り口の様子
「日本に護送された俘虜たち」12箇所の収容所の地図

「板東俘虜収容所とは −われらバンドー人−」

「われらバンドー人」という、ちょっと意外なサブタイトルですが、「地域の人々との間にも心温まる数々の交流が生まれ、『バンドー』はドイツと日本を結ぶ心の架け橋ともなっている」ということなんですね。

山の上から撮影した収容所の全景
後期の全景。意外にも雪景色ですね。さきほど歩いてきた上池、下池もほぼ当時のままのようです。
2mほどのジオラマ
ジオラマです。
ジオラマをアップで
よく出来ていますね。8棟ある大きな宿舎のうち左側が今は団地になっていて、右側は公園になっています。
ジオラマを上池の西側から俯瞰した様子
映画「バルトの楽園」の中で青島総督のハインリッヒ少将は別荘みたいな家を与えられていましたが、どこなんだろうなあ。
ジオラマの拡大、ボウリング場の建屋と牛の柵
ボウリング場まであったのが驚異ですね。大正初期にすでにボウリングが存在していたとは。
ボウリング場の拡大模型、投げる側。
ボウリング場の拡大模型もあります。
ボウリング場の拡大模型、ピン側。
1回1回手動で並べ直したんでしょうね。大変だ(笑)
ジオラマ、下池周辺の拡大
食肉加工所やパン工房などの作業所エリア
「職業別にみた俘虜の構成」機械金属加工148、食料・衣服生活必需品97、建設および補助職業96、農林業57、交通運輸45、サービス業36、鉱山・土木26、出版印刷10
「俘虜の職業の多様さ」

「板東俘虜収容所には、現役の軍人以外に、当時日本・中国などアジア各地から召集された多数のドイツ民間人がふくまれていた。そのため、俘虜の職業も実にさまざまで、収容所全体が多様な技能・知識集団を形成していた。ドイツ兵はそのすぐれた技術や知識を活かし創意あふれた収容所生活を送るとともに、農業・畜産改良・製パン・製菓をはじめ、音楽・体操などにまでおよぶ幅広い「文化」を、地域の人々に伝えてくれた。」

俘虜たちの集合写真
なんか、いい感じですね。服装がそれぞれの元のままなのが不思議な感じです。
松江所長の写真と軍服。
所長松江大佐[1872(明治5)年−1955(昭和30)年]

「松江豊寿は、戊辰戦争(1868〜69)で官軍に敗れた会津藩士の子として会津若松に生まれた。職業軍人の道を選んだ松江は、日清・日露の戦役に参戦、「日韓併合」前の韓国駐さつ軍司令官の副官も勤めている。帰国して数年後、青島陥落とともに徳島のドイツ兵俘虜収容所所長となり、さらに板東の所長となる。「ドイツ兵も国のために戦ったのだから」と、敗者への思いやりを知る松江は、下に暖かく上に厳しい、温和で包容力に富んだ人物だった。」

「収容所の管理スタッフ」「管理事務室」「ラッパ」「軍隊手帳」の写真
副官高木大尉[1886(明治19)年−1953(昭和28)年]

「高木繁は丸亀町(現、香川県丸亀市)で生まれた。松江所長と共に、徳島俘虜収容所から板東俘虜収容所に移り、良き補佐役として収容所運営の支えとなった。語学の天才といわれた高木は、イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・ロシアなど7ヶ国語に通じ、堪能なドイツ語で俘虜たちの不満や要望に対処し、収容所当局と俘虜たちとの調整役を務めた。第二次大戦後、旧ソ連の抑留先で死亡したといわれている。」

映画では國村準がいい味で演技していました。

所内新聞『ディ・バラッケ』の世界

「無気力・無関心状態に陥りがちな収容所生活の刺激として、また教養と娯楽のために、1917(大正6)年9月から2年間、収容所の兵舎にちなんで命名された所内新聞『バラッケ』が俘虜たちの手で発行された。多色刷りで、週刊から後に月刊となり、全部で85号、2700ページ余りのものである。1回の発行部数300部、月額50銭で、他の収容所の俘虜も購読していた。戦況や所内での活動の報告、徳島の紹介や随筆など、記事内容は多彩であった。」
考えられないですね。自由自治です。
『デイ・バラッケ』第3巻の写真
見事なものです。
ドイツ橋の写真
橋の建設

「一種のボランティア活動として、俘虜によっていくつかの橋が造られた。最初に手がけられたのは板東町の要請による木の橋で、近隣の人々も利用した。現在残っているのは、『ドイツ橋』『メガネ橋』と呼ばれるアーチ状の2つの石橋で、上流からも石を集め、一切セメントを使わずに組まれている。素人を交えての仕事だったが、100年たった今でもたわみもなく、ドイツ人の技術と気質を示す貴重な遺産となっている。」

印刷活動

「板東俘虜収容所での印刷方法は謄写版と石版であったが、『バラッケ』をはじめ印刷物の90%以上が謄写版で印刷されている。音楽会や演劇のプログラム、童話の本には6色という多色刷りもある。これらの印刷物は、鉄筆でのガリ版切りからローラーを転がしての印刷まですべて手作業だったが、ガリ版印刷とは思えないほどのできばえであった。最近、板東俘虜収容所で使われた謄写版が、日本製であったことが判明した。」

「謄写版印刷の方法・発展」のタイトルと印刷所の小屋の写真
この小さな印刷所から素晴らしい印刷物の数々が生み出されました。
「鉄筆でガリ版を切る俘虜」のタイトルと二人の人物の写真
いい顔ですね。「俘虜」ではなく名前を書いてもらいたいです。
『鉄条網の中の4年半』のタイトルとイラストの描かれた本の見開き
「収容所生活の模様をユーモラスに記した画集」
「収容所で使われた1円札(複製)」のタイトルとお札の写真
「紙幣が不足していたため、1918年に所内通貨として1円札が3千枚発行された。」
切手と切手シート(2銭と5銭の2種)の写真
所内郵便切手。美しいデザイン、そして精巧な印刷です。

「俘虜たちにとって郵便は故郷への唯一の絆であり、盛んに手紙のやりとりが行われた。1918(大正7)年8月には、俘虜間の通信の必要性も高まり、所内郵便が開かれ、2銭と5銭の2種類の切手が発行された。この切手はそれぞれ750シート、250シート発行されたといわれ、現在でもコレクターの間では『バンドー切手』として珍重されている。」

戦時中でも敵国内との通信が可能であったことに驚きます。

ガリ版のペンと原紙、ヤスリの写真
ガリ版

「謄写版印刷機:『ガリ版』の愛称で親しまれていました。コピー機や輪転機の発達で昭和の終りごろには学校や事務室から姿を消しました。上達者は原紙1枚から1,000部の印刷物が刷れたそうです。『板東俘虜収容所』の印刷所での紙の使用量は1917年は35万枚、1918年では55万枚に達し、印刷用のローラーが回転した距離は1918年で1,200コロメーターもあったことが記されています。『板東俘虜収容所』で生み出された多色刷りの技法で最も多く印刷されたものがイベントのプログラムです。所内では頻繁に音楽やスポーツなどのイベントが行われますが、その都度、告知を兼ねたプログラムを作成しています。6色刷りのプログラムを300部印刷するためには、インキをつけたローラーを1,800回まわすこととなり、その長さは1色で79.5m、6色すべてを刷るためには477mを必要としました。」

特色6色印刷とか、なんて贅沢な、と思ってしまいます(笑)。現在のカラー印刷では網点で色分解できるからこそCMYK4色でカラー表現が可能ですが、当時は色分解処理ができませんでしたからね。線画の6色印刷、いろんな意味ですごいな〜のひと言です。

ステッヘル少佐による書「忍耐」
現代アートのような書です。

スポーツ活動

「スポーツはドイツ人の日常生活に深く根ざしており、収容所生活においても意欲的に取り組まれた。所外には運動場が、所内には体操場やレスリング・ボクシングの練習場、有料のボウリング(九柱戯/きゅうちゅうぎ)場、ビリヤード場が造られた。『スポーツ委員会』のもとにサッカー・テニス・ホッケー・体操などのクラブが次々に組織され、多彩な活動を行った。徒歩大会には地域の人々も沿道で声援を送るなど、スポーツを通じての交流も深められた。」

「スポーツ活動」のタイトル板とテニスをする人のイラスト
コミカルなイラストですね。
「ドイツ兵が建設した体操場の内部」イラスト、「サッカーチーム」「収容所内での球技」の写真
ほんとうに収容所とは思えないですね。

「運動場は、軍の演習場用地として購入した土地のうち、地元住民が耕作地の一部として借り受けていた土地の一部を、ドイツ兵が地元住民から年額241円25銭の賃借料で借地した土地に整備される」とあります。

遠足風景の写真4点。松林の中や海岸、尾根の写真
日本兵の引率無しでの遠足が許可されたとか、信頼関係がものすごいです。

「第一次世界大戦を終結に導く休戦条約が締結された1918(大正7)年11月以降、『板東俘虜収容所』のドイツ兵のスポーツへの関心は変化していく。
集団での遠足は、1917(大正6)年は散歩を含め4回、1918(大正7)年は散歩を含め8回であったが、1919(大正8)年には爆発的に増加し、遠足は25回・終日遠足は52回と計77回も開催されている。この遠足は、ブッターザック第3海兵大隊第6中隊長が収容所管理者側と交渉し日本兵の引率無しでの行動が認められた。
遠足は収容所周辺の散策だが、終日遠足は北方の山越えで瀬戸内海の櫛木海岸に向かうコースが最も多く、いくつかの四国霊場八十八箇所霊場を廻り背後の阿讃山脈尾根を縦走するコースや、瀬戸内海から小鳴門海峡を経由するなど、その都度コース設定を変えている。
1919年1月から6月までの半年間に実施された41回の遠足と終日遠足に関する統計では、遠足で歩いた平均距離は15.3km・総距離数367km、終日遠足で歩いた平均距離は32.4km・総距離数551kmと記されている。参加者は、遠足で平均92名・合計2207名、終日遠足で平均213名・合計3661名を数えている。また、1919年9月1日の第31回終日遠足において参加者が通算1万人を突破した。」

演劇活動

「単調な収容所生活における娯楽として、演劇活動も活発であった。所内の池のほとりに設けられた野外の舞台や兵舎第1棟内に造られた劇場では、演劇グループが交替で、シェイクスピア、レッシング、ゲーテ、シラーらの作品を毎月のように上演した。女装の俘虜が登場する喜劇や人形劇は特に人気が高かった。『俘虜演芸会』では、体操の演技や音楽演奏などと並んで喜劇も上演され、会場に集まった日本人観客からも盛んな拍手を浴びた。」

ヴェルデンブルッフ作『ラーベンシュタインの女』のプログラムと舞台背景スケッチ。
舞台背景のスケッチが美しいですね。

「『板東俘虜収容所』には1917(大正6)年10月頃に『演劇委員会』が設けられ、北京大学教授で地質学者だったゾルガー少尉の指導の下、演劇や人形劇の開催と観客の希望や苦情の処理をおこなった。
上演については中止や再演が多くすべての情報が把握できないが、2年8ヵ月の間に人形劇や演芸会を含め70回以上の公演があり、月平均2演目、一週間に約0.54回の割合で実施されていた。
『板東俘虜収容所』で開催された演劇の特徴として、演奏会のようなリハーサルの公演はないものの、一つの公演について好評だったものについては当初予定されていた以上に回数を増やし上演したことである。チケットは10銭から50銭で販売しているが、同じ公演でも開催日によって金額が違う設定となっている演目もある。また、土曜日・日曜日の開催は少なく平日の夕刻以降の開演が多い。
演劇についても合唱と同じように女性役をドイツ兵が担当し演じている。衣装や大道具・小道具については、それぞれの専門技術を活かしてドイツ兵が分担して製作しており、『板東俘虜収容所新聞』1919年9月号に掲載されている演劇の舞台情景画のスケッチ10枚からもその専門性をうかがうことができる。」

ドイツ兵俘虜たちのくらし

「『世界にマツエのような収容所長はいただろうか』と讃えられた松江は、甘すぎる、金をかけすぎるという上からの批判にもめげず、俘虜たちが健全で快適な生活を送れるよう心をくばった。厳しい中にも俘虜のプライドと自主性を重んじて、できるかぎり所内外での自由な活動を認め、うながした。俘虜を人間として心服させたこの管理方針は他の収容所の俘虜からも高く評価され、『模範収容所』として注目された。」

宿舎の模型
良くできていますね。
(模型)4人で夕食をとる風景
「仲間との食卓」収容所でビールを飲み仲間と語りあいながら夕食をとるなんて、考えられるだろうか。

「食卓にはトンカツ、ビール、パン、チーズ、スープなどのドイツ風のメニューが並んでいます。収容所の中では、牧畜や菜園作り、パン作りなど自給自足もしていました。収容所の中には『水晶宮(クリスタルパレス)』という高級飲食店もありました。」

(模型)故郷に手紙を書く仲間をそっと見つめる姿
「故郷への手紙」仲間をそっと見つめる。
(模型)故郷に手紙を書く姿。
「故郷への手紙」一心に手紙を書く姿。
(模型)部屋でヴァイオリンを練習する姿
一生懸命ヴァイオリンを弾いていますが…
(模型)ヴァイオリンを練習する部屋の隣で耳を塞ぐ仲間の姿
「芸術か騒音か?」のタイトルに笑います。

音楽活動

「ドイツ兵俘虜たちは収容所生活のなかでも、その音楽好きの国民性を発揮した。ハンゼン、シュルツ、エンゲルの指揮した3つの交響楽団ばかりでなく、吹奏楽団・室内楽団・マンドリン楽団などが結成され、収容所内外で月平均3回、通算100回ものコンサートが開かれた。当時のプログラムが数多く残されており、ベートーヴェンの『交響曲第9番』をはじめ国内で初演された曲も多く、日本の音楽史上特異な1ページをなしている。」

「徳島オーケストラと指揮者ヘルマン・ハンゼン」の説明パネル

「一曲歌いたいね、私がギターで伴奏するから」。そう言って日本人にギターを注文した。けれども残念ながらその日本人はドイツ語がまったく判らなかったので、ギターの代わりにチェロをもってきた。これが、われわれのオーケストラの始まりだった。前から2、3丁のヴァイオリンがあり、親切な寄付のおかげでさらに2、3丁のヴァイオリンと1丁のヴィオラが手に入り、今は音楽クラブをもてるようになった。もちろん初めのうちはほとんどのメンバーは、自分の楽器のテクニックをまったく初歩から身に付けなければならなかったが、好きだからといって何でもやれるわけではない。われわれは短時間で、すばらしいことがたくさんできるようになった。(下略)
「われわれの音楽」『トクシマ・アンツァイガー(徳島収容所新聞)』第1号 徳島1915年4月5日より

「エンゲル・オーケストラと指揮者パウル・エンゲル」の説明パネル

私は優れた音楽教育を受け、名のあるオーケストラでのみ音楽活動をして参りました。俘虜生活が始まり、最初は3名で活動を始めましたが、現在では45名の楽団員を抱えております。全員が素人です。2週間後に私は、オーケストラをバックにベートーヴェンのヴァイオリンコンチェルトと、ベートーヴェンの第六交響曲を演奏することになっております。去年私は徳川公(徳川頼貞)の前で、私のオーケストラと一緒に共演致しましたが、その演奏の後、彼が私に個人的に話しかけてくれました。オーケストラと私の演奏を褒めて下さいました。(以下略)
エンゲルの第一次大戦後、求職の手紙一部抜粋(1919年10月1日 板東)
訳者;小阪清行氏 出典:チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会報 0242号 2006年9月15日付け

ヴァイオリンの写真
「ドイツ兵が使っていたヴァイオリン」
マンドリンの写真
「俘虜製作のマンドリン」
ベートーヴェン作曲「交響曲第九番 合唱」全楽章演奏アジア初演のコンサートプログラムのデザイン

1918(大正7)年6月1日の「板東俘虜収容所」でアジア初めて全楽章演奏されたベートーヴェン作曲「交響曲第九番 合唱」のコンサートプログラムの表紙には、ドイツの芸術家ナックス・クリンガー(Max Klinger: 1857-1920)が製作した色彩彫刻「ベートーヴェン像」をモチーフとした画像で飾られています。
この像は、1902年にオーストリアのウィーンでその完成を記念して開催された「第14回ウィーン分離派展」でグスタフ・クリムトの大作「ベートーヴェン・フリーズ」と共に展示されました。部分ごとに大理石・アラバスター・象牙・メノウ・碧玉・アンティークガラス・金など異なる素材で構成されており、豊かな色彩が特徴的です。
この像は現在、ドイツ・ライプチヒ造形美術館で展示されています。
このプログラムをはじめとする「板東俘虜収容所」で製作された印刷物の多くは、世紀末芸術の影響を受けたデザインを多用しており、大きな特徴といえます。

「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「交響曲第九番 ニ短調 合唱付き」の全楽章アジア初の演奏会」説明パネル

「ヘルマン・ハウゼンは1918(大正7)年6月1日に開催された徳島オーケストラ第18回コンサートで、アジアで初めてとなるベートーヴェン「交響曲第九番」の全楽章演奏を成し遂げた。
コンサート前日には公開リハーサルもおこなわれるなど、入念な準備のもとで開催されているが、特に合唱の参加者に対しての練習の告知が、所内日刊情報誌『日刊電報通信』に頻繁に掲載される。
最初に掲載される合唱の練習の告知は4月3日で、3日と6日に収容所内の浴室を使用しておこなわれている。これ以降、5月3・7・10・21・24・25・29日にオーケストラとの合同練習が、5月22日にテノールのパート、5月25日はバスのパートの練習がおこなわれている。
合唱はドイツ人捕虜のみで第4楽章「歓喜の歌」を歌うため、女声パートを男声パートにアレンジして歌われた。このため練習に関して参加者に周到な呼びかけをする必要があったと思われる。
徳島オーケストラはエンゲルスオーケストラと並び、収容所内で頻繁に演奏会を開催した。その中で徳島オーケストラは、1918年3月31日の第17回コンサート以降、「交響曲第九番」演奏会までの約2ヶ月間コンサートをおこなっていない。このことから、徳島オーケストラの楽団員は、「交響曲第九番」演奏に向けて集中的に練習を重ねていたことが窺える。
演奏会は前日の5月31日に公開リハーサルを、6月1日午後6時30分から本演奏がおこなわれた。ソリスト4名、合唱には80名、楽団には45名ほどが参加した。
また、公開リハーサル前日の5月30日には、ヘルマン・ボーネル(解放後に旧大阪外国語学校講師)によるベートーヴェンの「交響曲第九番」についての講演が開催されている。」


「お母さん!
雨期が始まった所で、約6週間続き、蒸し暑い雨模様の天気がその特色です。
先週の土曜日にはベートーヴェンの交響曲第九番の演奏会がありました。演奏は大成功でした。特に第3楽章には惚れぼれしました。なんとも言えない安らぎ、なぐさめが流れ出て来るのです。私は元気です。
ヴィルヘルムはもうスイスに着きましたか。心からの挨拶をもって
あなたの ヘルマン ハーケ
1918年6月10日の葉書」

スコアの写真。

「スコア初版譜の後刷り。1827年マインツのショット社出版。初版が出版された後の10月、ベートーヴェンはショット社に15箇所のメトロノーム表示を送った。この楽譜は彼の指示による変更がくわえられたもの。原版のプレートに後から加えたので、狭いところに無理に押し込んだ感じがする。ベートーヴェンの手紙より『この夏はウィーンを離れられなかったので、夏の残りを利用してこの田舎で健康の回復に努めております。その間に交響曲にすっかりメトロノーム表示を付けましたので、テンポは左の通りです。アレグロ・マ・ノン・トロッポ 88=♩(以下略)これは別に印刷なさってもよろしい。…』」(ドイツ館所蔵)

第九演奏会のステージ再現模型
指揮者と前列の奏者は動く仕掛けになっています。(写真は前回来訪時2019年に撮影したもの)

地域社会との交流

催し物を通じての交流:地元はもとより、県外からの見物人も詰めかけた俘虜主催の『板東俘虜製作品展覧会』、徳島市内の劇場で開催され大盛況であった『和洋大音楽会』や『俘虜演芸会』など、俘虜たちと地域の人々との交流は、多彩な催しを通じて深められた。これらの催し物は、会場に集まった日本人にとって、俘虜たちの文化活動をじかに体験し、ドイツの文化を理解する絶好のチャンスだった。」

人形の写真。絵画の前でこどもたちが「説明者」の腕章をつけた軍人になにか尋ねる様子
フレンドリーな雰囲気が伝わってきますね。
木製品5点の写真
「会場で販売された俘虜製作の品々」紙巻きたばこ入れ、灰皿盆、パイプ、おもちゃ、うちわ立て
「俘虜の描いた油絵」
「俘虜の描いた油絵」

技術を通しての交流:当時のドイツはすでに重工業化を終え、高度な科学技術・生活文化が咲き誇っていた。板東俘虜収容所のドイツ兵の半数は予備役であり、専門的な知識や技術を持つ人が多かった。このため、地域の人々に対し、牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築など、さまざまな先進技術を指導し、西洋文化の普及につとめた。一方板東の人々は、地元の伝統工芸である大谷焼を教えるなど、技術を通しての交流が生まれ、友情を育む大きな要因となった。」

ドイツ人と子どもたちがダンスをする様子の人形
ダンス、楽しそうですね。
人形、ドイツ人が三味線を習う様子とトランペットを教える様子
楽器演奏の交流ですね。
パン工房の模型
パン工房の様子でしょうか。
人形、お菓子(ケーキ)作りを地元の女性に教える様子
「地域婦人会の西洋料理講習会:1919年10月6日より10日間、撫養(むや)愛国婦人会が俘虜の指導を受け、洋菓子や西洋料理の講習会を行った。」
獨逸軒(ドイツけん)店舗前での集合写真

「『獨逸軒(ドイツけん)』:藤田只之助は、収容所の製菓店『ゲーバ』のH.ガーベルにパンとお菓子作りの手ほどきを受けた。わずか半年で技術を身につけた只之助は、徳島市内にパンとクーヘンの店『獨逸軒』を開き、ドイツ風味の味と香りを市民に広めた。只之助は1945(昭和20)年に世を去り、店も同年の戦災で姿を消した。しかしその技術は弟子の岡高義(おか たかよし)によって受け継がれ、『ドイツ軒』(鳴門市)として伝統が守り続けられている。」

人形、地元のこどもたちにヴァイオリンを指導する様子
楽譜もちゃんと三重奏です。
スポーツ指導、大谷焼の製作の様子(人形)
スポーツ指導に大谷焼の製作、どれも楽しそうです。
牛の搾乳指導風景(人形)
牧畜指導
エンゲル音楽教室、所外からのスポーツ見学、大谷焼の製作、牧畜指導のパネル
ほんとに収容所なのかという多彩な活動ぶりです。
鳳鳴閣(ほうめいかく)の模型
「鳳鳴閣(ほうめいかく):板野郡立公会堂として1920年3月に完成し、以後鳴門市を代表する集会施設となり、のちには鳴門市中央公会堂としても利用された。俘虜がその設計を監修した。」
ネジの図面
ネジの図面でしょうか、精巧ですね。
煙突のある建物の屋根の部分の絵
「徳島県立工業学校(現、県立工業高校)で俘虜が教材に使った設計図画」
スケッチをする俘虜の人形。
この前に立つと、カンバスに映像が流れる仕掛けになっています。最初はぎこちなかった地域の人々との関係が、時間と共に徐々に馴染んでゆき、お互い仲良しになってゆく光景がユーモラスに描かれます。

地域の人々との交流:板東では俘虜と地域の人々との間で物心両面にわたる盛んな交流が行われた。櫛木海岸での海水浴や遠足では、微笑ましい交換風景が各所で見られ、民族の違いや交戦国という垣根を越えた人間としての心のふれあいが深められた。板東の人々は俘虜を親しみをこめて『ドイツさん』と呼び、彼らのもたらす先進的な異文化に目をみはった。また俘虜たちは板東の異国情緒にひかれ、地域の人々をモデルに写真やスケッチを残している。」

俘虜の解放

「俘虜の解放は、母国が連合国側に回ったイタリア系が最初である。板東に移ってまもなく、1917(大正6)年6月のことであった。終戦翌年の1919(大正8)年6月からはポーランド系・ベルギー系、さらには国境変更などを控えたアルザス・ロレーヌ、シュレスヴィヒの人々が相次いで帰国した。板東の中心をなしたドイツ兵が解放されたのは、同年末から1920(大正9)年1月にかけてで、63名が希望してそのまま日本に留まった。」

収容所の門を出たところで所内に向けてハンカチを振る俘虜。手には大きなボストンバッグ、門には犬が座って見ているイラスト。
「終り」というタイトルの漫画風の絵。
街頭での炊き出しに群がる市民の様子の写真(外国)
帰国しても戦争の爪痕の悲劇が襲うという救いの無い現実。

その後の俘虜たち:1919(大正8)年のクリスマスの前後に板東の俘虜の過半数は開放され、第1次送還船豊福丸(ほうふくまる)を皮切りに祖国に向かった。彼らは船上で新聞『帰国航』を発行し、祖国再建の希望に燃えていた。しかし彼らを待ち受けていたのは、廃虚と化した故郷であり、近親者の死であり、縮小された領土と支払い不能な賠償金だった。これらは、恐慌ともからんで新生の共和国をゆるがし、のちのナチズム台頭の伏線ともなった。」

その他

上が半円になった窓にコスモスのプリントされたシートが貼られている。窓の外は豊かな緑。
南側の出窓部分からは外が見えます。
松江豊寿氏の銅像も見えます。本人は銅像になんかなりたくなかったと思うけど(笑)
あれから100年の時を経て男声合唱版「第九」が再現されたという記事。
この鳴門ドイツ館前の広場で第九を演奏したんですね。
「第九初演100周年を迎えて」の説明パネル
世代を超えて続く交流に心温まります。

第九初演100周年を迎えて:『第九』全楽章演奏から100周年目の2018年6月1日、鳴門市は当時の演奏の再現コンサート『よみがえる第九演奏会』が開催された。コンサートには、元ドイツ兵捕虜の子孫を招き、父や祖父から何度も聞いた板東の思い出話と重ね合わせながら、ドイツ兵の慰霊碑への献花と、父や祖父がドイツ館に託した数々の思い出の品と対面した。
この100周年事業に合わせ、スイス在住の子孫ペトラ・ボルナー氏から祖父がデザインし大切に守られてきたイベントプログラムと所内新聞が寄贈された。
また、ドイツ館前広場には『松江豊寿銅像建立実行委員会』の活動により建立された収容所長松江豊寿の銅像除幕式が松江氏の子孫とともに執りおこなわれた。
2018年10月15日には『板東俘虜収容所跡』が、第一次世界大戦に関する遺跡として希少なものであるとともに、交戦国間における文化交流を象徴する遺跡として評価され国史跡の指定を受けた。」

慰霊碑の完成式典の様子
1919(大正8)年8月31日の完成式典 慰霊碑の左最前列の人物が所長松江豊寿

ドイツ兵の慰霊碑がつないだ交流の復活:板東俘虜収容所は閉所後の1920(大正9)年6月、敷地内に残された兵舎を陸軍演習場の施設として使用することが許可されたことで、第二次世界大戦終結まで陸軍の施設として使用された。第二次世界大戦終結後は、大陸からの引揚者の住宅として活用されるが、ここで暮らすこととなった髙橋春枝夫妻は、住宅北側の池のほとりに見慣れない異国の文字が刻まれた『碑』を見つける。これが『板東俘虜収容所』のドイツ兵捕虜が解放される前に、板東・丸亀・松山の各『俘虜収容所』で亡くなった11名を慰めるために建設された『ドイツ兵の慰霊碑』であった。
この慰霊碑を建設するにあたり一部のドイツ兵捕虜から、敵国の地に仲間の慰霊碑を残して帰ることへの反対意見があったものの、1919(大正8)年2月17日に建設作業が始まり、8月31日には松江所長も参列た完成式典が挙行されている。
髙橋夫妻は、大陸で亡くなった仲間たちへの思いや、夫の敏治氏のウズベキスタンで同じ捕虜として収容されていたドイツ兵との交流の思い出が、板東の地からドイツに帰ることができなかったドイツ兵の思いと重なり、慰霊碑を生涯をかけて守っていくことを決心した。
活動を始めて13年目の1960(昭和35)年10月、この活動が新聞で報道されたことがきっかけとなり、ドイツ駐日大使W.ハース夫妻らが11月29日に『ドイツ兵の慰霊碑』への献花と髙橋夫妻に感謝の気持ちを伝えに収容所を訪れた。」

「ハース大使の来訪から約1年後の1962(昭和37)年1月、元ドイツ兵捕虜エドアルド・ライポルト氏から、ドイツの日本大使館を通じて大麻町役場(当時)に一通の手紙が届く。そこには『収容所や慰霊碑が今どうなっているのか知りたい』、『年に一回程度、当時のドイツ兵仲間と会合を開き、当時の思い出を語っており、今度は自由な身で日本を訪れることがわれわれの願いである』と書かれていた。
ライポルト氏は大麻町からの返信で、髙橋夫妻たちの手で慰霊碑が守られていることを知り、元ドイツ兵捕虜の会合で仲間に伝えた。慰霊碑が地元の住民の手で守られていることを知った仲間たちは、慰霊碑を保護する活動に対して感謝の手紙や寄付金、そして当時の写真や印刷物などを大麻町に送ることとなる。また地元では、元ドイツ兵捕虜から送られた『板東俘虜収容所の記録』を後世に伝え残すため、記念館建設の気運が高まるのであった。」

大正時代の牛乳ビン、4×4本並んだ様子
大正時代の牛乳ビン

「大正時代の牛乳の販売は、『牛乳搾取規則』(明治22年)によりガラスビンに入れて販売することが定められた。それより前は、販売者が木桶や金属製の容器を担ぎ、おのおのの家にあるナベやドンブリなどに柄杓で量り売りをしていたが、衛生面に問題があったため、規則制定後からガラス容器を使用することになる。
ここに展示する牛乳ビンはガラス製で、容量は90ml(5杓)である。このサイズのものは『牛乳搾取規則』制定以降、昭和初期頃まで使われていたとみられる。」

松江豊寿 生誕150周年記念企画展「敗者とともに松江がめざしたもの」

同じフロアの奥の部屋で特別展が開催されていました。

はじめに:松江豊壽は会津出身の軍人で、第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ兵を収容した徳島、板東の両収容所の所長を勤め、捕虜の取り扱いに関する国際法規を遵守し、人道的な待遇を維持することに努めたことで知られる人物です。
しかし、いくつか残る履歴書から陸軍時代の勤務地と表彰歴を知ることはできますが、自身の行動を記した日記や回想録などの記録を残さなかったため、豊壽本人のさまざまな事案に対する胸のうちを知るてがかりはありません。
そのような中、豊壽の日本陸軍の標準的な捕虜の取り扱いを上回る対応について、感謝の言葉が捕虜側の記録に書き残され、また、その対応は最終的に軍部に評価されていた事が、捕虜の取り扱いに関する報告書から窺うことができます。
今回の企画展は、松江豊壽の生涯150周年を記念して開催します。豊壽を取り巻く様ざまな立場の記録と、「ドイツ兵の慰霊碑」建設と「白虎隊墓地」拡張事業に尽力した姿から見える豊壽の敗者への想いが伝われば幸いです。」

「父久平、母ノブとの家族写真」

以下、「家族の記憶1」パネルから転載します。


豊壽は死別した妻ヨシとの間に一男、妻うたとの間に三男一女を授かります。豊壽が板東俘虜収容所に勤務していた時期は、まだ幼少であったため、子どもたちは当時の父の言動について多くは記憶していません。

そのような中、長男智寿は、父豊壽について、

ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも『武士の情け』という言葉の方が(父の場合)一番ぴったりしているように思います。(父は)武士らしい厳しさと、強い正義感を持つ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。

と証言しています。

長女寿子は父豊壽との思い出を

  • かなり自己規制の強いタイプの人であったらしく、勲記・表彰に関しても、周囲の人が「もっと上のものがもらえたのに」と残念がっても、父は「自分が表彰関係の仕事をした経験があるから、かえってやりにくい…」と控え目であった。
  • 若い頃から、自分の意見が正しいと思えば、ときに上司に盾つくことがあっても、部下をつねにかばうという姿勢が基本にあった。
  • 家族思いで、ドイツ人捕虜からソーセージ、ハム、ケーキ等、贅をきわめた品々が届けられた。
  • 母もドイツ人捕虜から各種調理法を習った。
  • 子どもたちも食卓の雰囲気を好み、だいたい食堂に残った。
  • 新人の女中が、楽しそうな食卓の雰囲気に「何のお祭りですか」と尋ねるほどであった。
  • 自分の子どもたちには厳しくない。「勉強しなさい」などと言われた記憶がない。
  • 趣味は囲碁。

と語っています。
自分には厳しい反面、家族にはやさしく、職場では部下を大事にする姿勢を貫いていたことが印象に残っていたことが判ります。


家族写真

部下が伝える豊寿が管理した収容所の雰囲気2
龜谷友二郎軍曹の証言1

木越中尉と同じ1918年の11月に着任した龜谷友二郎軍曹は、『行路七十五年』と題した自分史ノートに板東俘虜収容所での捕虜の管理方針や思い出話をいくつも語っています。
その中で、収容所の管理方針については、

収容所の治安は日本側が担当するが、一般行政面は捕虜のドイツ人青島民生行政官ギュンター提督をはじめ、日本や支那青島に在勤していたドイツ会社重役や社員の予備、後備兵役と南洋駐屯海軍部隊(第三海兵大隊)将兵たちが、自治制でもって行うことを許されていた。
所内の山の中腹には沢山の別荘の外、工場・作業場・養豚場・食品加工場などの建物が立ち並んでいた。また、劇場、遊技場、料理屋、洗濯屋、写真屋、雑貨屋などシャバと同じ様に店舗が並ぶ商店街が作られており、我々所内日本側勤務者でも、暇があれば所内劇場へ外国映画やドイツ芝居を観に行ったり、料理屋へ一品料理の美味い物にありつきに行ったものであった。

と、板東俘虜収容所での生活が捕虜の権利を最大限尊重した、捕虜たち自身の組織的な管理により運営されていたことを裏付ける記述が見られます。そして捕虜が経営する各種店舗は内向きなものではなく、管理者側の書所員も受け入れるものであったことが分かります。


馬上の松江豊壽

周囲の史料から、松江豊寿や収容所の側面が立体的に理解できる展示となっていました。

エントランスから外へ

子どもの描いた、合唱団とオーケストラの絵
2階ロビーに飾られていた絵です。復活演奏会の様子を描いたものでしょうね。合唱団の口が大きく開いて歌う姿が印象的だったことがうかがえます。
ロビー吹き抜けの2階部分に展示された大きな凧
鳴門わんわん凧

鳴門「わんわん凧」の歴史


[展示パネルより転載]今から約320年前(江戸時代・元禄5年)大工の棟梁・又左衛門が鳴門市撫養(むや)町岡崎の蓮花寺再建の棟上げの余興として、宇陀紙(うだがみ)50枚貼りの丸凧を揚げたのが始まりとされている(このとき、白い祝い餅が朱塗りのわんに盛って出されたのをヒントに丸凧の周囲を赤く塗って揚げたところ、おわんを2つ重ねたように見えたことから「わんわん」と呼ぶようになったちいわれている)。
わんわん凧揚げが最も盛んであったのは、昭和9年から11年頃で、当時の「凧番付」には82の凧の数が載っており、大きなものは直径12間(約20m)重さ5トンもあった。「まぜ」(南東の風)が吹く季節ともなれば、仕事の途中でも、各地から大八車を幾台も連ねて、鳴門市里浦町の広戸海岸(当時)で大凧揚げに興じた。
この凧揚げも戦争で中断され、戦後は趣味の多様化や海岸の減少によって衰退したが、伝統を今に伝えようと、昭和40年代に「鳴門大凧保存会」によって復活され、毎年11月に鳴門ウチノ海総合公園で「鳴門凧揚げ大会」が開催されている。
展示のわんわん凧は鳴門市大凧保存会によって製作、寄贈されたもの。


ベートーヴェンの銅像、広角で
ベートーヴェンの銅像です。
ベートーヴェンの銅像、アップで
右手がひっくりかえってるのがどうも気になります…

鳴門市公式ウェブサイト「なると第九」より

1997年に鳴門市制50周年を記念し、ドイツ人彫刻家ペーター・クッシェル氏により制作されました。また、像の裏には、「第九」アジア初演80周年と95周年時の「第九」演奏会の記念陶板を設置しています。


木陰から見るドイツ館の建物
来た時はいいお天気でしたが、今はやや曇り空です。
道の駅の外観
道の駅第九の里物産館。収容所の材料が一部使われているということです。
道の駅の看板
看板
道の駅入り口に貼られている小看板2つ「鳴門市が、あの名曲のアジア初演の地だった!?」「柿本家バラッケ(旧板東捕虜収容所兵舎)」
「柿本家バラッケ」は元収容所の兵舎だったんですね(一部)

鳴門ドイツ館、いかがでしたでしょうか。たくさん引用させていただきましたが、それでもほんの一部です。奇跡的な運営だけでなく、後世に再発見される過程もまた奇跡的で、その素晴らしさの一端でも感じ取って頂ければ幸いです。徳島へ行かれた際はぜひお立寄りいただければと思います。

『きけ、わだつみの声』の出目昌伸監督が、松平健と『ヒトラー~最期の12日間~』の名優ブルーノ・ガンツ共演で贈るドラマ。第一次大戦中の捕虜収容所を舞台に、ドイツ人捕虜と収容所員や地元民との交流、そして「第九」演奏に向けての挑戦を描く。

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