2泊3日で和歌山へドライブです。
今日は和歌山城へ行ってから白浜のホテルへ。明日はアドベンチャーワールドの予定です。
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いざ、和歌山城へ!
その前に、父のお墓参りで天王寺の一心寺へちこっと寄り道します。
阪神高速が大規模工事中のため、ルートが中断してややこしいことになっています。
ちょうど通りがかったこの「瓜破(うりわり)」交差点付近はNHK「解体キングダム」でも4月に放送されました。(残念ながら番組は一瞬しか見れませんでしたが)
おーここかー、って感じです。
頭の中では湾岸線のイメージだったのが、近畿道経由になるとは思ってなくてちょっと混乱。
後から見て「こんなルートやったんかー」とびっくりです(笑)
20代30代のころは関西吹奏楽コンクールの録音で5年に1度は和歌山県民文化会館へ行っていたのですが、もうすっかり記憶にありません。当時は湾岸線もナビもケータイもなくてどんなルートだったのかなあ…
コンクールへ向かう朝のことですが、会社を出てすぐのUターンで、タウンエースに積んでる機材が荷崩れし、その影響でハンドル操作を誤って左前輪を縁石にぶつけて壊してしまい、朝一からてんやわんやになったことは思い出します(^^;;
和歌山城とうちゃこ
無事和歌山城付近へ到着です。街路樹が色づいて奇麗ですね。
なんだか空が広く感じます。
和歌山城外周をぐるっと回ってみますが、適当な駐車場が見つからず、お城の駐車場へと向かいます。
実は今週初めからまさかの痛風の発作でヒザに痛みがあって、ロキソニンのお陰で大分マシにはなってきたものの、まだ少し痛くて十分に脚を曲げることができなく、階段の上り下りはなかなか難儀です。
尿酸値は随分前に4を切るかという数値なので、尿酸結晶もどんどん減っているハズなんですが、まさかの発作でびっくりです(笑)
これが尿酸結晶最後のあがきと思いたい…
和歌山城天守閣です
どんな景色が見れるのか、楽しみです。
小天守と大天守の2棟からなる天守は1847年に焼失、1850年に再建、その後(旧)国宝に指定されるも1945年和歌山大空襲で再び焼失、1958年に鉄筋コンクリート構造で再建されたということです。
史跡 和歌山城
和歌山城パンフレットより
天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて岡山(虎伏山(とらふすやま))の峰に築城させたのが始まり。築城を担当した家臣の一人がのちに築城の名人といわれる藤堂高虎です。同年、秀長の城代として桑山重晴が入り、秀長家が途絶えると桑山氏が城主となり、豊臣・桑山時代に山峯部分や岡口の整備が行われました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、浅野幸長(よしなが)が入城すると、黒板張りの連立式天守を建て、現在の二の丸・西の丸に屋敷を造営し、居城として整備を進めます。大手も岡口から一の橋に変え、大手筋を基軸とする正方位の町割りで、城と城下町の形が造られました。元和5年(1619)、徳川家康の10男頼宣(よりのぶ)が入城し、55万5千石の御三家の一つ紀州徳川家が成立。二の丸西部・砂の丸・南の丸を増築し、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。明治・大正期を経て、昭和6年(1931)国の史跡に指定され、長く地元で親しまれています。
城のシンボルである連立式天守は、寛政10年(1798)に黒板張りから白壁に外観が一新されますが、弘化3年(1846)に落雷で焼失。その4年後に再建された2代目の天守閣も、昭和20年(1945)に空襲で再び焼失。現在の天守閣は、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造で再建された3代目です。
築城を命じられた豊臣秀長は2026年の大河ドラマ主役ですね!
仲野太賀の秀長がどうなるのか、とても楽しみです。和歌山城も出てくるといいなあ。
紀州藩大名駕籠
館内掲示より
紀州徳川家が将軍家から拝領した駕籠を再現した。規格などは「津山藩松平家所用男乗物」(津山郷土博物館蔵)、色調などは『南紀徳川史』を参考にした。
檜皮(ひわだ)や竹などを編み込み外装にあしらった総網代(そうあじろ)に、漆を用い溜色塗(ためいろぬり)を施し、棒は黒塗といった仕様が『南紀徳川史』に記されている。家格によって使用できる駕籠には決まりがあり、このような意匠は、江戸では将軍家のみが使うことのできた格式高いものであった。
城内には主に江戸時代の品々が展示されています。
縹糸威縦矧桶川二枚銅具足(はなだいと おどし たてはぎ おけがわ にまいどう ぐそく|冨氏寄贈)
冨家は紀州藩士で、幕末に御勘定見習賄方(おかんじょう みならい まかないかた)であった。
兜は16枚の鉄板でできた阿古陀形筋兜(あこだなりすじかぶと|ふくらみをもった形が「あこだ瓜」に似る)。前立(まえたて|兜の前面)に紀州徳川家の合印(あいじるし)「金の日輪(にちりん)」がつく。
鎧は、袖に萌葱色(もえぎいろ)、腰から腿(もも)を守る草摺(くさずり)に縹色(はなだいろ|うすい藍色)の紐を用いる。骨牌鉄畳具足(かるたがね たたみ ぐそく)冨氏寄贈
館内掲示より
兜も胴も骨牌鉄(金属板)を鎖でつないでおり、折りたたんで持ち運ぶことができる。兜には「金の日輪」が描かれ、腿を守る佩楯(はいだて)は金白檀地(きん びゃくだん じ)に朱の日の丸を描く。
朱塗鞘拵(しゅぬりさやこしらえ)和歌山城整備企画課蔵
この鞘におさまっていた刀には、「紀州住文殊重国造之」の銘が入っている。文殊重国(もんじゅしげくに)は数代にわたる紀州藩主のお抱え刀工で、初代の徳川頼宣とともに「南紀重国」が和歌山に移ってきた。金蒔絵梨子地葵紋散糸巻太刀(きんまきえ なしじ あおいもん ちらし いとまきたち)
和歌山城整備企画課蔵
梨子地の鞘に、紀州徳川家の家紋「丸に三葉葵」を金蒔絵でほどこす。葵紋は刀装金具にもふんだんに刻まれ、鐔(つば)や責金(せめがね)も葵の葉をモチーフにしている。
歴史背景は不明だが、紀州徳川家に関わる資料であろう。将軍にもなった5代藩主の徳川吉宗は、将軍在任中に各地の名刀を格付けして台帳を作成したことが知られている。ケッペアー拳銃 和歌山城整備企画課蔵
館内掲示より
ドイツ製で、用心金(ようじんがね|トリガーガード)に「7K1112」の刻印がある。短い銃身に対して機関部が大きく、もとは長い銃だったのを短銃に改良した可能性がある。
鼠色綾陣羽織(ねずみいろあやじんばおり)
戦場などで着用した。着たまま動いたため、活動しやすいように袖がない。墨絵龍陣羽織(すみえりゅうじんばおり)和歌山城整備企画課蔵
戦場で鎧の上に着たが、防御のためというよりは人目を引くためであり、目立つように作られた。これには大きく龍が描かれている。紀州藩金丸(きんまる)旗印 塩崎廣氏寄贈
館内掲示より
戦場で鎧の背に差し込んだり、従者に持たせたりした旗。
紀州藩の重臣である山中筑後守俊信(やまなかちくごのかみとしのぶ)の家に伝わる。山中は藩の年寄であると同時に藩主の側用人で、江戸後期に権勢を誇った。
渡辺家 屋敷門の模型 伊永国松氏製作・寄贈
館内掲示より
第二次大戦で焼失した渡辺主水(もんど)の屋敷門を復元している。屋敷は和歌山城「三の丸」にあった。渡辺主水は藩主を補佐する加判之列(かはんのれつ)の職にあり、禄高3,000石の重臣であった。
和歌山城大天守3階展望室からの眺望
さあ、いよいよ展望フロアです。
東側
南側
西側
お城の見学を盛り上げるために、いろいろ企画されてるんでしょうねー。
余談ですが、フリーマーケットとは「flea market」=「蚤の市」なので free じゃないんですってね!
北側
市役所や県民文化会館がある向きです。
御橋廊下
https://www.homemate-research-castle.com/useful/16965_tour_046/
西の丸と二の丸大奥をつなぐ廊下橋。殿様やお付の人が行き来するのを外から中が見えないように屋根と壁が設けられました。両岸の高さが違うことから斜めになっているのも珍しい橋となっています。
江戸時代の図面をもとに、2006年(平成18年)に復元されました。
素晴らしい景観でした。望遠での写真があるので、帰ってからも二度楽しめます。
多門の展示
天守を降りて連絡通路の多門を通ります。
いろいろ展示されていて面白いです。
鳥類図巻(粉本(ふんぽん))明渡氏寄贈
館内掲示より
鳥類を多数写生したもので、狩野派による絵の下絵(粉本)である。狩野派は、江戸幕府や紀州藩の御用絵師を務めた画派。
源氏物語屏風 川口小六氏寄贈
館内掲示より
『源氏物語』は、平安時代中期(11世紀)に紫式部が著した54帖からなる長編恋愛小説である。美しく才能あふれる貴公子の主人公・光源氏が様々な女性との恋に翻弄される生涯と、その後の息子の悲恋を描く。
今日まで長く読み継がれ、特に版本が流布した江戸時代は読者層を庶民へと広げる画期。物語の場面を描いた屏風は、嫁入り道具として好まれた。
夕顔 4帖
わびしい屋敷に牛車で通りがかった光源氏が、名の知らぬ花を従者に手折らせていると、その屋敷に住む子どもが扇に花(夕顔)を乗せてくれる。扇に書かれた和歌に惹かれ、「夕顔」と呼ばれる女性との関係が始まった。花宴(はなのえん) 8帖
花見の宴のあと、画面左下の源氏が宮中で見かけた女性の袖をつかんで引きとめて口説く。
藤の花の宴で女性(朧月夜)と偶然にも再会し、彼女が朱雀帝の寵愛を受け始めてからも逢瀬を重ねた。須磨 12帖
都を追われた源氏が廊へ出て海の方をながめていると、物悲しげな雁の声が聞こえ、都にいる女性たちを思って家臣とともに涙する。
源氏は朱雀帝の寵愛を受ける朧月夜との関係が露見し、須磨(神戸市)に退いていた。明石 13帖
館内掲示より
馬に乗った源氏が月夜の浜辺を行き、なかなか会えずに思いを募らせていた女性(明石の君)のもとへ初めて向かう。須磨から明石に移住した源氏は、明石の君と関係をもつが、都に残した女性のことを思って後悔することになる。
和歌山ゆかりの偉人たちの資料が展示されていましたが、名前に馴染のあった三人のパネルをご紹介します。
南方熊楠(みなかたくまぐす)慶応3年(1867)〜昭和16年(1941)
南方熊楠は、慶応3年(1867)4月15日に和歌山城下橋丁で、金物商の父弥兵衛と母スミの次男として生まれる。雄小学(現和歌山市立雄湊小学校)、和歌山中学校を経て、明治16年(1883)年に上京し、共立学校を経て大学予備門(現東京大学)に入学する。同校退学後の同20年正月に渡米し、シカゴの地衣類学者カルキンスに師事して標本作成を修得する。
展示パネルより
その後、キューバを経てイギリスに渡り、大英博物館を中心に独学で研究を続けた。この間、科学誌『Nature』に寄稿し、明治33年に帰国後も研究を継続し、多くの論文が採用されている。彼は、菌類や粘菌の研究だけでなく、民俗・文学・歴史等の分野にも多くの文章を発表した。彼の学問領域は、それまでの枠を大きく打破したが、その広範な学識のため博物学者と評されている。帰国後しばらくして、田辺に居を構え植物の採集に熱中するが、同39年末に布告された「神社合祀令(ごうしれい)」による神社林いわゆる鎮守の森の伐採で植物が絶滅することや、それにより生態系が壊れることを憂い、環境保護運動ともいえる神社合祀反対運動に精力を傾注する。この後も彼が理想とする環境の在り方を訴えつつ、生涯市井の大学者として研究生活を送った。
彼は、官尊民卑(かんそんみんぴ)の戦前において生涯を民間人として過ごしたが、その学識は無視しがたく、昭和4年(1929)の昭和天皇和歌山行幸に際しては、求められて進講を果たした。同16年萎縮腎のため75歳の生涯を閉じ、田辺市高山寺に埋葬された。
和歌山市は、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建立している。
南方熊楠というと、牧野富太郎を思い出しますね。この二人は標本のやり取りなどはあったものの実際には会ったことはなかったそうです。
「神社合祀令」とか、人間の勝手な振舞いで消されていった植物たちが気の毒なものです。
有吉佐和子 昭和6年(1931)〜昭和59年(1984)
有吉佐和子は昭和6年(1931)1月20日、和歌山市真砂町(現吹上一丁目)に、父眞次長女として生まれる。4歳まで和歌山で過ごし、同12年父のヨコハマ正金銀行バタビア支店長就任に伴い、ジャカルタの日本人小学校に入学。同14年夏に、出産をひかえた母とともに一時帰国し、木本村立木本尋常小学校(現和歌山市立木本小学校)に通学するが、一年足らずでスラバヤ日本人学校に転出する。
展示パネルより
昭和16年に帰国し東京で過ごすが、昭和20年の東京大空襲で家を失い、静岡を経て和歌山に疎開。二学期から和歌山県立和歌山高等女学校に転入する。
翌年末上京し、昭和24年に東京女子大学文学部に入学。同26年に同大学短期大学部に移り、歌舞伎研究会に所属する。この頃から演劇雑誌『演劇界』への投稿を通じて文筆活動を開始し、31年に『地唄』が芥川賞候補になる。その後、34年『紀ノ川』、37年『助左衛門四代記』、38年『有田川』、40年『日高川』、41年『華岡青洲の妻』と、ふるさと和歌山を題材とした小説を発表する。たおやかな紀州弁で語られるこれらの物語は、紀の国の川のように美しく力強い女性の生き方と、新しい時代を切り開く紀州人のたくましさが描き出されている。
さらに、後年の39年『緋色(ひしょく)』、47年『恍惚の人』、50年『複合汚染』等の作品は、人種差別、高齢者、環境問題など現代社会がかかえる問題を描いた社会派作品としてベストセラーになり、海外でも評価が高い。
小説だけでなく、ルポタージュや演劇の脚本・演出等幅広い活動を続け、いずれの分野においても高い評価を受けたが、昭和59年に53歳の若さで急性心不全のため不帰の人となった。
高橋克己 明治25年(1892)〜大正14年(1925)
高橋克己は、明治25年(1892)3月9日、海部郡木本村(現和歌山市木本)に生まれる。
展示パネルより
大正3年(1914)東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学。同6年同大学院に進み、鈴木梅太郎教授のもと油脂成分の研究に取り組む。卒業後、財団法人理化学研究所でさらに研究を進め、世界ではじめてビタミンAをタラの肝油から分離抽出することに成功した。当時動物の成長を促すビタミンAがバターや肝油に大量に含まれていることは知られていたが、分離抽出の方法が見つかっていなかったため、大正11年(1922)の日本化学会での発表は学会の賞賛を浴びた。さらに、ビタミンAの性質や生理作用についても研究を重ね、多くの病気(特に夜盲症や肺結核等)の治療に効果があることを発見し、「理研ビタミン」の名称で栄養剤として商品化した。この「理研ビタミン」は現在では想像できないほど栄養状態の悪かった当時の日本人には大きな福音となった。また、日本はもとより欧米各国にわたる「理研ビタミン」の特許権は、理化学研究所にも大きな収益をもたらした。
大正13年(1924)ビタミンAに関する業績により鈴木梅太郎とともに帝国学士院賞が授与され、賞金は彼の意思により母校である旧制和歌山中学校(現県立桐蔭高校)に全額寄付された。同校ではこれを基金として「高橋賞」を設け、大正15年(1926)から昭和20年(1945)年に至る間、理化学の成績優秀な生徒に授与された。大正14年(1925)農学博士の学位が授与されるが、8日後の2月8日、病のため逝去。弱冠32歳であった。
昭和44年(1969)、高橋克己博士顕彰会により和歌山市岡公園内に頌徳碑が、翌年生家門前に生誕地碑が建立されている。
読んでみてもピンと来ず…あれ?もしかして俳優の高橋克実かー(笑)字が違うし(^^;
こちらの高橋克己さんは世界で初めてビタミンAを商品化したという凄い人でした。それにしても32歳の若さで亡くなるとは、残念なことです。
天守閣再建の流れ
展示パネルより
昭和20年(1945)7月9日、和歌山大空襲で焼失した和歌山城天守閣も再建は、戦後すぐに和歌山市会(市議会)で話題になった。しかし、当時は戦後復興の大変な時期で、再建に向けての動きはなかなか本格化しなかった。昭和30年代に入ると、再建に向けた動きが本格的になる。再建を強く願っていた、当時の和歌山市長である高垣善一が中心となって、同31年(1956)に、和歌山城再建事務局・和歌山城再建期成会が結成された。寄付金の募集も開始され、寄付の輪は地域の隅々まで広がり、総額5,750万円が集まった。
再建にあたって、木造にするか鉄筋コンクリート製にするかの議論があったが、当時、木の入手が困難であったため、鉄筋コンクリート製で、焼失前とほぼ同じ姿に再建することになった。
設計は、嘉永の天守閣再建時の資料や古写真をもとに、城郭建築の専門家である東京工業大学教授の藤岡通夫が担当した。工事は、大阪の奥村組が施工することに決定した。昭和32年(1957)6月10日には、地鎮祭が行われ、再建工事が開始された。
昭和33年(1958)10月1日、総工費1億2,022万万円を費やして天守閣が完成した。竣工式も行われ、その日から5日間、天守閣再建を記念した「お城まつり」が開催された。その間、天守閣に登閣した人は8万人にのぼった。再建された天守閣は、現在も郷土のシンボルとして市民に親しまれている。
昔、仕事で県民文化会館に来ていたころは、ホテルなどからチラっと見るだけで通り過ぎていた和歌山城にようやく来ることができて満足です。
もう少し時間と元気に余裕があれば庭園などもゆっくり見たかったのですが、2 時近くとあってお腹ぺこぺこ、何はともあれ腹ごしらえが必要です。
お昼ご飯は「蒸しダイニングMusuMusu」で 〜おいしい野菜が身に染みます♪
南海和歌山市駅が奇麗なビルなので、この辺でお昼にする?
しか〜し、駐車場も数少ないしなかなか空いてるとこがなくて苦労しました(^^;
ここまで来て、建物の西側に立体駐車場があったのか!と気付きます…
東側からアプローチしたのでわからなかったよ…
この建物は「キーノ和歌山」というらしいです。
左側の2階がレストラン街になっていました。
オムライスが食べれるところは見つからず、ここがいいんじゃない? となんとなくヘルシーなイメージの写真に誘われて入ってみます。
せいろ蒸し料理のお店らしいです。
せいろ蒸し、野菜がなんてったって美味い! 蒸した野菜って、なんでこんなに美味しいんだろうな〜、自然のチカラがそのまま残ってるというか、カラダに染み込む感じです。お腹が空いてたからというだけじゃないと思うなー。
ここにして良かった〜としみじみ噛みしめます(笑)
ホテル・シーモアへ
初めての阪和自動車道をドライブです。山肌のミカン畑にたくさんのオレンジ色のみかんが生っている景色が素晴らしかったです。さすが和歌山な感じ。ドラレコの映像を残しておけば良かったなー。
今回の旅行は初動が遅く、かろうじて予約が取れたのがこのホテルでした。
旅行の予約でいつも利用している 一休.com のサイトがなぜか反応せず、仕方なくあちこち検索して、たまたま見つけたこのホテルからの予約ページで進めていたら、なぜか trip.com というサイトからの予約になっていました。
一度目はクレジットカードが認証されず「?」となったものの、再度やったら通りました。でもそのあとでもしかしてフィッシングサイトでやっちまったか!? となんとなく不安になり、翌日ホテルに電話で直接確認したらちゃんと予約できてました(^^;;
最近はこういう旅行サイト系のトラブルの話もよく聞くので、海外発信のサイトはちょっと怖いですよね。
今回は何の問題もなく、料金もおトクな設定のものを利用できたので良かったですが、ホテルのサイトから別会社の予約に繋がるんだったら、予めちゃんと分かりやすくしておいて欲しいものです。
先に言っておきますが、このホテル、なかなか良かったです。
特に温泉が素晴らしかった。独り占めの露天風呂はサイコーでした(^^)
お客さんもスタッフも、半分くらいは外国人な印象でしたが、特にマナーが気になるような人とは出会いませんでした。
フロントの外国人の人は言葉(発音)がわかりにくくて困りましたが…
部屋の鍵がひとつしかなくて、温泉は交代で行くことに。ひとり部屋でぐったりしてたら、なにやら太鼓の音が…
つーか、めちゃくちゃ五月蝿いやろ!!??
お祭りの練習でもしとるんか!寝られへんやんけ!と大阪弁で毒づきます(笑)
いくら吹奏楽で慣れてるとはいえ、このタイミングでこの場所で、なんで太鼓!!!??
仕方なくフロントに 電凸すると、隣の宴会場の催しで太鼓の演奏があるらしく、今はリハで練習中とのこと。10分で終わりますのでどうかご辛抱を…とのことなので仕方なく許しました(^^;;
いやー、ホテルの部屋で太鼓の音をバンバン聞くハメになるとはなあ。びっくりするわ、ほんま。
ひさしぶりのブッフェで、思うままに選択してたら、まったく統一感の無いごちゃごちゃメニューになってしまいました。反省。明日は全体を見てからもうちょっとメニュー構成を考えようよ(笑)
さ、明日はアドベンチャーワールドです。楽しみ〜♫